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奥只見湖納涼クル−ズ
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1 関興寺(かんこうじ)の沿革と関興寺の味噌なめたか 1/5
2 レストハウス越後での昼食甘エビ食べ放題 2/5
3 鮮魚センター魚野の里と魚野川を散策 3/5
4 駐車場より奥只見湖ダムまでの写真 4/5
5 貸切遊覧船ファンタジアで奥只見湖を周遊 5/5

●関興寺の沿革 (掲示板より抜粋)
 当山は最上山関興寺といい、宗旨は臨済宗(禅宗)で鎌倉の円覚寺派に属す。
開創は応永17年に覚翁祖伝和尚が開基す。
覚翁は上杉憲顕の子、駿河に生まれ、諸方を偏参後、白崖宝生和尚に散じて嗣法、
上山の地に一宇を建て、白崖和尚を請じて開山とし自らその次位となる。

 二世不蔵和尚の頃上田長尾氏、鎌倉公方足利持氏の帰依厚く永享八年
寺領永楽百二十貫文並びに境内山林一里余りの御朱印地を給せらる。
 三世在天和尚に至り長尾房景及び上杉房定伽藍を修築し幾多の寄進をなし、
法道もまた興隆する。

永正9年兵火のため諸堂焼失、翌10年長尾房長僧堂を建立、天正6年
上杉氏家督相続争乱により一山焼土と化す。

天正14年上杉景勝諸堂再建旧に復したが文禄3年
三たび祝融の災に遇う寺運次第に衰退して振わず。慶長6年上杉景勝
米沢に移封せれるや第三十二世東岩和尚これに従い米沢に新たに関興庵を建立した。

 寛永6年4度目の火災により、寺門の衰退はその極に達した。
寛文年中に米沢関興庵より万源和尚をむかえ、寺を上山の地より現在地上野に移し、
末寺嘉祥庵を改め関興寺となした。

 その後安永5年に現在の本堂が建てられた。

●関興寺のみそなめたか (掲示板より抜粋)
 天正6年上杉謙信の没後、景勝・景虎二養子による家督相続争いが合戦がおこり合戦と
なり兵火のため諸堂が焼失する。時の住職、雨天是鑑和尚は上杉氏寄進の大般若経六百巻を
味噌桶中に隠し兵火より護った事から、大般若経を火の難から護った味噌であるから
この味噌をいただくと福徳が授かると諸方より関興寺に参詣するもの多く
いつとはなしに「関興寺のみそなめたか」といいはやされるようになった。

天正6年(1578)上杉謙信没後、景勝、景虎による家督相続の争い「御館の乱」で戦火を受けた際、600巻の大般若経を味噌桶の中に入れて守ったという言い伝えがある。
階段を上ると関興寺の本堂へ

下の写真は本堂内で撮影
・すばらしい龍の彫物
・600巻の大般若経を味噌桶の中に入れたといわれる桶が天井より吊るされていた。
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